ひとりひとり見えるものは違うのです!〜優しい世界への願い〜

All

 

長年ベジフードが中心の生活をしていて今にして感じることを

今回はちょっとだけ簡単にお話します。

 

 違うことへの嫌悪感ってあるよね

自分に対して具体的に負の言動や行動をしてきた人に対して抱く嫌悪感や、反論反発はあって当然ですが、ただただ「自分と違う」というだけで、何故か感じてしまう不快感ってありますよね。

おそらく、ベジタリアンやビーガンという選択をしようと思うと、周りの人との関係に困ってしまう人が多いと思います。

その一つに周囲の人たちが動物性食品を美味しそうに食べることへの嫌悪感があると思います。

健康目的や宗教的理由なら良いのですが、倫理的にベジ生活をしている人にとっては、動物性食品を目にするだけで苦痛な人もいます。わたし自身も厳格にビーガン生活をしていたときはそのような傾向がありました。

 同じ感覚なんて存在しない。

ここで、冷静になって考えてほしいこと。

それは「一人として同じ感覚を持っている人はいない」ということ。

「共感」なんて言葉があったりしますが、この共感の状態であったとしても、人は全く同じ感覚を感じていることはありません。

こんなこと誰もがわかっていることですが、実際の人間関係の中では、すっかり忘れてしまっていることが多いですよね。
自分とは考え方も実際の行動も異なる人に対して不信感を抱いたり、実際に攻撃的な態度や言動を相手に投げかけてしまうこともあります。

しかし、自分と目の前の他人は全く異なる「世界」を見ているとしたら、どうでしょうか?

感覚も言動も行動も違っていて当然ですよね!?

自分には動物が屠殺されている姿が「残酷」に見えていても、別の人には美味しいお肉の「解体ショー」にしか見えていないかもしれません。

 

現代の人にとっては当然のごとく「奴隷制度」が残酷だと感じますが、制度廃止前の昔の人にとってはとっても便利な「道具」にしか見えていなかった人がほとんどです。中には残虐だと感じて、当初から制度廃止を訴えていた人もいたでしょうが、最初はその声は小さく無力だと感じていたことでしょう。

 見えないものを無理やり見せることはできない

「紫外線や赤外線を見ろ!」と言われても、頑張ったって見えないのと同じように、目の前のお肉が「死骸」なんだということを見えない人もいます。ちょっと例えに無理矢理感がありますが(汗)

それは「良い悪い」では全く無いのです。

自分にとって「見える」ものを大切にしてどんなことでも選択していけばいいだけなのです。

もちろん、何かの理念や使命感をもって啓蒙活動をすることは素晴らしいことです!!

 

でも、その活動者が「みんな違う」ということをしっかりと胸に秘めておかなければ何らかの形の「戦争」になってしまいかねません。

 

 

いろいろな感覚や知識があることを「お互いに」見せ合うことで、それぞれがそれぞれの形で成長していけるような「優しい世界」があることを願うばかりです(*^^*)